ズッキーニ。

学校に6年行かなかったあたしがきのくに子どもの村を卒業してから大人になって思うこと

果てのないじかん。

 

 このさき、どのくらい、繰り返して、苦しまなければいけないのか。

 

 

「悲哀のプロセス」を踏み、病気を認めようとしない時期を越えて、絶望の時期を耐え、健康だった自分を手放して受容することで、新しい自分を造りだす。

 

だれのために?なんのために?

 

健康だったときなんてもういつだったのか覚えていない、生まれたときは健康だったのか。3才にはもう発症したのかさえ分からない。これまでなんど絶望を味わったのか。

そのなかで、私を助けようとはしてくれなかった人のために、私を造り変えなければならないのか。この関係を続けるためだけに。

 

 

 

私は努力しなかっただろうか。伝えようとしなかっただろうか。なぜ通じなかったのか。どうして一人で死ななければいけなかったのか。どうしてここに行きついたのか。

それを自分の人生だと受け入れて生きることをどうして許してもらえないのだろうか。

 

分かりえない相手と、暮らさなければいけないのか。

私が、病気だから。私が、悪いから。私が、治すべき対象で。相手に非はないから。

 

それならもういっそ、一人にしてくれないかな。

自分でいることを、辞めたくない。

 

 

 

まだこのさき、どのくらいの時間。

私は人のために、苦しみ続けなければいけないのかな。

 

我がままを通すことも出来ないのか。

 

ただひとりで安心して、ねむりたいだけ。

 

 

 

「きらい」

 

「すき」

 

「すきだから離婚したくない」

 

すきって具体性も根拠もない、使い勝手のいい言葉。

あなたは私とセックスしないけれど、私が浮気したらどうするの?

 

「浮気してるの?」

してるって言ったら?

 

「別れるしかないね」

 

なんだ。(そんな簡単なんだ。)

 

 

じゃあ浮気してるよ。

 

 

 

すきって、なんの根拠もない言葉なんだ。嘘で言っても

いいんだ。

 

 

 

 

ここから逃げる。

 

狂ったのは私の頭か、この世界か。とっちもか。

 

 

 


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逃避と戦い、混乱と現実

 

衝動にのって高速バスで関西へ。

 

離れてしまえば、傷つけるけとも傷つけられることもない。

 

こうして離れているだけで安心することが、自分には、物理的距離が必要だとよく分かる。自分の家族のいるところよりも、ネカフェのオープン席で眠りにつく方が安心で安全でパーソナルスペースを確保できていると感じるなんて。

 

信頼の欠片もない家族関係。

 

想像できることは、起こりうること。

これ以上悪くなっていくことなんて、いくらでも想像できる。良くなる理由はひとつも見つからないのに。

 

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コロナで観光客のいない奈良公園。でも、修学旅行生はちらほら。200円で鹿せんべいを買うと、鋭い眼光の彼らが近づいてくる。鳩に餌をやるイメージで(やっことはないが)、バラバラ下に巻いて去ろうとしたら、せんべいを束ねた紙が解けない。ウロウロとしている私に鹿が業を煮やし突進!逃げ惑う後ろから尻にめがけて突進!!い、痛い…怖い…うめき声が漏れる。

 

周りでも修学旅行の小学生がせんべいを手に逃げ惑う。かん高い悲鳴が上がる。鹿…お腹減りすぎなのかな。殺気立ってる…

 

 

 

 

奈良界隈には、小さな古書店が徒歩圏内で点在していてあるきまわると楽しい。まわっていると1つの本屋さんで40代くらいの女性が「タイトルはわからないけど酒鬼薔薇聖斗著作の本を、探している」と店員さんと話していた。いろんな人がいる。

私は宮沢賢治関連の本を3冊購入。東京にも古書店街はあるけどね。東京にいたら、できてしまうことが多すぎるんだ。それをすることを止めるために、できない場所に自分を運んでしまえば、もうやりようもなくなる。自分を逃がすことしかできなくなる。

 

頑張ることもできなくなる。


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そうでもしなきゃ。このポンコツは止まることを忘れて、動き続ける。

 

 

お前ががんばると周りが大変なんだ。がんばるな。

もうなにもするな。いきようとするな。

 

アクセルとブレーキ

同時に践む。

 

行けと止まれと同時に指令が出される。

 

 

深夜2時半まで話し合い。

 

 

だめだと言う方の自分を無視して、自分は頑張るのだと言う。

 

 

 

自分で自分を守らないなら、だれも守ることはできない。

 

 

学習能力のない自分。

 

 

もういいよ。

 

 

 

もう、できないよ。

 

 

許してください。

 

 

 

 

無知でいること。

 


私が、しずくさんが南アルプスに行くことを迷ったとき、メリットもデメリットもたくさん知りたいと思った。学校側や生徒の口から表面的なイベントでマイナスの発言をしてくれることはまずない。

 

とにかく会って卒業生の話を聞いた。マイナスの言葉は絶対にあったけど、それを表に出してくれることを快諾する人はひとりもいなかった。私は、デメリットは改善や変化のためにも必要なことだから、発言されないのはどうしてなのかと考えた…

 

ずっと考えて自分の中ででた答えは、知っていれば安心かもしれないけど、知っているから不安にもなる。だった。

 

デメリットは結局、個々の受け止め方。すべての人の人生がそうなるわけじゃない。

 

公立の学校でマイナスの部分をたくさんみた私は、きのくにを卒業したあと高校進学はしたけど、それは中卒で働けるとこがなかっただけ。

本当は高校も、「学校」に関わりたくなかった。嫌な記憶やマイナスの情報ばかりが私の中にはたくさんあふれていた。

 

情報よりも目の前で起きるデメリットの感じ方は個々のもので、他の子にはなんでもないこともある。でもゼロでもない。

 

私は学校について悪いことを「強く知りすぎていた」と思う。大学進学もその固定観念のせいで「別にどっちでもいいから行こうかな」と思うことが難しかった。前知識として知らないで進学してからデメリットにぶち当たる方が、現状のメリットと並べて自分でどうするか考えられたのかなって思う。

 

人の話で選ぶよりも、自分の体験で自分の問題として受け入れたらよかったのにと思う。そしたら、楽しいことも少しは多くあったはず。いろんな人間関係も変わった、見方も変わったと思う。

 

きのくにの人以外はあまり物事を深く考えてくれてない、なんて、人間関係が足りないから出た言葉だよね。

 

だから、そのデメリットが必ずしも自分に起きる可能性が高くないなら、知ってること自体がマイナスに作用することもあると思った。

起きる前に悩むよりも、起きたときに考える方がいい。本当にデメリットを知りたかったら、聞き出せるまで行動するしかないと思う。

 

正直、結婚も子育てもこんな大変とは知らなかったし思わなかった。たぶん不安になるくらいわかってたら、結婚しなかった。なんでも起きればしんどいけど知らずにいて現実で問題にぶつかって取り組むほうが良いって、経験としていつか言えるようになるかなぁ。まだそうも言えないくらいはしんどい。


起きなければいいことも多い。何も起きなければ、人に会いにいったり、他の人の考え方を知りたいと思うこともできなかった。

 

私は内面の成長がとても遅い。

 

 

これからまだ少しは成長できなきゃ(いけないから)植え付けられた不安を壊したい。自分が動けなくなる前に。自分がちゃんと呼吸をしているうちに。

 

 

 

 

 

あなたは、自分の子どもと離れるべきと。

 

もう、これ以上は、しずくさんにも私にも、良くない。

 

 

生きてさえいれば、また会える。

 

 

だから今むりに「母」を続けなくていい。

 

 

言って。

 

そういうふうにしたって、だれかが不幸になったりはしないって。

 

 

そう言える人間は、どこかにいるのかな。

 

 

望まれたものになれないことを許される。

 

 

そんな世界どこにあるの。

 

 

 

 

見つけられない。

 

 

 

 


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いろんなやり方があるとして、

その中で条件が合わなくて、できないことは、切り捨てるしかない。

 

制度として存在していても、メリットデメリット、やるやらない、できるできないはどうしてもある。

 

社会の保障の一環だとしても、それはもう利用できないものはかんがえても仕方がない。

 

悩むだけ…無駄…

 

ハッキリとキッパリと言われた。

 

シッカリと問題を解いていくことを恐れない人間。

 

あがいても、もがいても、私がなれない人間。

 

 

 

だけど、私は?

 

生きると言う制度を利用できないときは、どうしたら?

 

キッパリとハッキリと言うのだろうか。

 

考えるだけ…無駄だって…

 

 

 

わたしは…

 

 

 

 

 

 

ばかだなぁ、ほんとに。

 

 

 

私は、ばかだ。

 

 

 


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ネカフェ難民ならいいかな。

 

 

クロネコヤマトでバイトしてたとき、明らかに、生活するためのものが入ってるんだろうなってカバンやスーツケースを持って送迎バスに乗り込んでくる人が何人かいた。

 

夜勤週5で、7時間働いて1日1万円くらいで、ネカフェのフリーパックとかで12時間いたとして2000円、シャワーして300円、食費3食コンビニでカップ麺とかおにぎりとか1日1000円くらいかな。飲み物はひたすら飲めるし。

 

月収200000円

△ネカフェ62000円

△シャワー9300円

△コンビニ31000円

 

残額102300円

あ、でも洗濯は?持てる量しか服もないし2日に一回とか洗うなら乾燥込みで400円として15回で6000円?

 

△洗濯6000円

 

残額96300円

あれ、まあまあ残る?ネット代も光熱費もないから?

ネカフェ62000円普通に家賃より高いけど光熱費、通信費いらないからいいのかな?

 

家賃30000円、ガス3000円、電気3000円、水道代2000円、ゴミ袋代700円ていっても、やっぱり普通に賃貸借りたほうが安い。

 

あとは、学費と食費払えればいいな。

 

 

 

契約とか、家電を持つとか。死にたい人間がするべきじゃないって考えてしまう。全部からっぽにしてこの世界からいなくなりたい。なにものこさずに。

 

バカなこと言ってばがっかり。

 

 

あ、△スマホ代1200円。

 


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考えることを放棄しない力。

どんな方法でも、いいから考えて、考えなきゃ。

 

 

追われるように、考えるために、不安から逃げるために、人に会う。

 

考えるには、不安を解消することが必要で、不安を解消するには、人に会うことが最もいい。

 

そのことがどうであれ、私の中にはプラスに働きかける行動だから。

 

 

 

人が5分で行けるところに何日もかけて遠回りしなければたどりつけない。

 

それでもいい。それでいい。

どんな方法でもいい。どんなに遅くても。それしか方法がないなら、笑われても。そうするしかないんだ。

 

 

考えて、立ち止まって、人に会って、安心してまだ私は、人のかたちをしているのか確認するようにまた歩き出す。

 

考え続ける。

 

 

こんなに時間がかかってもやっていく、重たいものを押していくような怪力を、ただ真っ直ぐに生きることに向けられたら私はとても楽になれるのにね。

 

 

それが、できるなら。

 

 

 

どんなにいいかなぁ

 

 

悪い影響、良い影響。

 

私は人に、しずくさんに、悪い影響を与える。

 

それは思考の歪み。

 

だけどその歪みから解放されることはない。

 

悪い影響、良い影響ってなんなんだろうね。

タバコやポテチが体に悪影響なのは分かっている事実。でも、なにかを摂取することに制限をかけることは精神にどんな影響を与えるのかな。事実としてわかっていないことが多い。

自由と放置の違いもハッキリしない。それが良いことか悪いことかは結果としてしか分からないんじゃないのかな。

 

必要なことか、必要のないことか、善悪さえも親や教師や他人が決められることじゃない。

 

暴力は悪いとしても、その暴力で生きられてしまうとき、それだけを切り取って「悪」と言えるのかな。

自分を傷つけることも、悪と言えない。殺人事件について必死に調べたとしても、それは殺人をする徴候ではないし。殺人について興味を持つことが悪いことではない。なんで人を殺すの?人を殺すとどうなるの?どうやって殺すの?その人はどのくらい辛いの?自分が生きてると同じくらい辛いだろうか。疑問をもつことはあること。

だけども、そこに至る要因には悪い要素があるかもしれない。そこに向かう必要があるかと言えば、なくてもいいし、そんなことよりも楽しいことが、日々目の前に餌のようにぶら下げられている日常ならば、死について考えることも自慰することも、「いらない」はずだった。

楽しいことで心がいっぱいになるくらい満たされているならそれは幸せだと思う。

 

テレビの中も、インターネットの中でも、死とはなにか。残酷なことを見たければ見る。見たいなら見ればいい。

だけど、その思考で縛られた世界には楽しいことがありふれていないんだと思う。

 

楽しいこと、遊ぶこと、友人がいること、自然とそれを選んでいく環境があるのなら。自分の欲求がなにか分からず、人の死について調べること、人の死について知りたいと思うことに結びついていく思考は、楽しいときは生まれない。

 

私がきのくに入って数ヶ月した頃、夜ご飯のあと疲れるまで鬼ごっこした。寮の中も外の坂も駆け回った。朝、誰より早く学校に行って音楽室のピアノを一人で弾いた。天気図を受信した。昼休みにずっとチャロを撫でていた。だれにも干渉されないこと、一人でいることに文句を言われないことに安心した。

子どもの自分が「子どもと遊ぶことを楽しい」と知るのに、生まれてからそこに行き着くにはとても時間がかかったと思う。疲れるまで走り回ることや、ボールを投げあうこと、そんなことが、まさか楽しいと思うなんてあの頃の自分には、信じられないくらい驚きだった。

そしてその頃は、死について考えずにすんでいた。

 

私の思考は歪んでいる、問題に取り組むべきとき、考えを単純化することから、始めなければいけない。まずは散らかった部屋を掃除する事が必要なように、散らかった思考を整理して、整理する方法もよくわからず、床に書かれた問題見るためにとにかく沢山ある思考を片付けたりよけたりしないといけない。

とてもスムーズではない。

 

無駄なこと、余計なこと、自分の負の思考を取り払う。問題の本質を見失って自己嫌悪や不穏な感情にばかり捕われて、解いていくこと、問題自体を簡単なものから難しいものに変えてしまっている。

 

それはたぶん、どこかで拾ってしまったまま身につけたまぎれもない「悪影響」なんだと思う。

 

「でも」と「だから」が多すぎるんだ。あれがやりたい、これがやりたい、でも、鬱だから、でも躁だから、でも学校が怖いから、でも人から怖いから。

躁鬱も、怖いと思うことも、止めることはできない。

 

取り払うことのできない感情をまとうことになったのは、私の性格と経験と環境すべてが要因。

 

私の思考と存在、環境は、しずくさんが自分の問題を複雑化させる経験になり「複雑化した感情」に捕われるんだという気がする。

だから私はとても「悪影響」、母親はいないよりもいた方がいいなんて楽なことじゃない。

生きることをわざわざ複雑にすることに利点がない。

私の思考も相互して、悪化してしまう。だから私は母と実家で暮らすことはしない。悪化したから。

 

しずくさんと関わりすぎないこと、私という「悪影響」から離れること、それが私の人としての関わり方だと思う。これも考えるだけ無駄な感情なのだろうけど、だってどんな幼少期でもどんな親でも結果は同じじゃないから。ただ、私みたいにひどくならないでほしいだけ。そして結果論がすべてではなく、そのときそばにいることは辛いと知っていた。

 

思考の掃除は嫌いだけど、代わりに現実の掃除はすきになった。視覚的に整うのだ。整うことと生活が行いやすいかは、また違う。だからそれさえも必要な行為ではない。ただ整ったという視覚が、心に「整っている」という状態の安心感をもたらすだけ。脅迫的な不安を持たないなら、どんなに散らかった部屋でも構わないはずだから。

 

長い長い時間をかけて、こんな結論に行きつくならなぜ悩む必要があるのかな。5分で分かること。

 

 

結局私は、いらないんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

問題と向き合う。

 

 

問題を解決するには、もう一度あの人をすきになることからはじめないといけない。

 

嫌いな人を好きになる。ハードルは高い、私だけが頑張ったところでなれるようなものではない。そうしようとしたところで本当に修復できるのかわからないし、これから長い時間をかけて「まだ、あなたをすきになっていない」と言わないといけないのなら、私もあの人もとても苦しい日々になる。

 

私は、「好きにならなければいけない」と前向きに取り組めないだろう。離婚してしまえば、どんなに前向きに関係を整理できるだろうかと思う。

 

でも私が結婚を前向きに考えられないように、あの人も離婚したあとの生活や役割、その暮らしを前向きに考えられないのは理解できる。同じだから。

 

あの人が、この結婚を続けられると想像できるのに、私はできない。

私が、離婚したあとに友達のようになろうと想像できるのに、あの人にはできない。それは自分ができない事だから想像が出来ないんじゃないのかな。だとした私達は、どこで折り合いをつければいいんだろう。

 

私たちは、躁うつだとか、家族で移住することで仕事を貰ったとか、南アルプスは遠くて学費は高くて片親では難しいとか。複雑な問題と向き合っているようだけれど、本当は単純に、「家族なら愛がなくても嫌いでもそばにいられるのか」ということが根底にあるだけなんだ。

それは、家族ごとに違う答えがあって、どういうかたちならそれぞれの家族に合うのかを探さなければいけない。別居だろうと離婚だろうと愛がなくても、家族は家族でしかない。

血が繫がっていようと戸籍が同じだろうと、みな、一人と一人には違いがないんだから問題は個々のもの。…あの人はそうは思わないんだろうけど。

 

私があの人を嫌ってしまうまでの間、言わないでいた事、言ってイヤな顔をされた事、それが辛くてまた言えなくなる事を繰り返した。私は思い込みが強すぎるし、あの人が言葉にしない間の表情ひとつで、不快や怒りや悲しみ、受け入れられない感情を感じたように考えてしまう。

 

私が繰り返してしまうのは、あの人が悪いと言うんじゃなく、誰かと「結婚」をすることに向かない人間だっただけ。

 

結婚も離婚も、してみなければわからないことの方が多いよ。

私が人とズレていることも、どう違うかを話さなければ、わからない。だけど話してイヤな顔をされるとわかっていて話すことは苦しがった。

 

歩みよらなければと話した結果、歩みよれなかったとき私は何度も自分をイヤになり、こんな風になるならもう歩みよらなくていいと思ったら、あの人を嫌いになっていた。

 

本気で離れたいなら、意地悪でも「相手が、どうでるのか?」と試さなくてはいけないんだと思った。自分の言葉を、何一つ黙ることなく、怒りも悲しみも、オブラートに包まずに全て伝えて、こちらから歩みよらずに、「結婚を続けたいあなたは、私になにができるの?」と突きつけた。「夜、少し話しできる?」と言われたけれど、話し合いはだめ、私たちが対等ならこれはあなた自身が考え出すことだよって言った。

 

私が不満を押し黙って、考えて選んで行動して、自分の中て処理しきれなくなるほど、結婚してるんだからあの人に歩み寄らなければと進んだ分の半分でも向こうからも歩みよろうとしてくれたなら、こっちに来てくれたなら、私はこんなにあの人を嫌いにならなくて済んだのかもしれない。

 

あなたが考えてください、そう言えるのはもうこれで

最後。

 

あなたを好きになるのに、私がどうしたらいいかなんて私には、途方も無い問題だ。

 

自分自分をオモイシルこと。

 

 

「オモイシル」思うこと、そして知ること。

 

とても柔らかい表現のようだけど。

 

自分的には「おもいしったか!」「クタバレこのゲス野郎!」

 

みたいな…攻撃的な意味合い。

 

私は、なぜ軽々しく人に抱かれてしまう、いつも浅はかなんだろうとか。

私は、なんで逃げるように自慰をしなければいけないほど卑しい精神を持ち合わせているんだろうとか。

私は、聖母のように清らかにいて、いつでも人を思いやれないんだろうとか。

苦しい気持ちになる。

 

友情も愛情もプラトニックであること。そういう関係がもっとも正しいものだと思っていた。性欲は、悪だ。親の前でいい子でしかいられない自分は悪になりたかったのかも知れない。

 

精神的苦痛と安心の両方を感じながら肉体的に他人と交わっていた。

 

 

風俗にかかわったこともどこかで、自分には精神的に必要なものだったのかも知れない。

 

金銭面の問題もあったけれど、父親がいないということとか、母に背中を撫でて貰うことで安心して眠れていたこととか。人の肌がふれること自体が、その狭い空間で厭らしく行われた行為よりも、相手が満足したように安らかに眠る瞬間が、いつまでも記憶に残っていた。

 

それが自分には必要な感覚なのだろうと今になって思う。

 

性的欲求は成長過程で、薄れたり、消えたり、していくものだと思っていた。子どもが指をしゃぶるように、その子にとっては必ず必要なことだけれど、必ず必要なくなるものなのだと。

 

人に触れたいと思う。人に触れてほしいと思う。

この感情は子どもの、抱っこを求めること、安心を求めることと同じ行為なのだと思い知った。

 

人に触れて満たされてやっと「これが私の欲しいものなんだ」って私の中の欲求が言うのだから、どんなに相手には心から愛されているとしても、これで満たされなければいけないんだと理解できなかった。

無理矢理に指を口から引き剥がされて、代わりにどんなアメを与えられても私には、それが愛なんだと理解することができなかった。

 

なぜ奪われたことを、嘆いたり、悲しんだりしてはいけないのか。我慢しなければいけないのか。他のことで代わりを見つけないといけないのか。大人なのに恥ずかしいと、蔑まれなければならないのか分からなかった。

ずっとそれを与えてくれていた人が、突然それを奪う。大すきな人が大きらいな人に変わってしまった。そばにいられない。安心できない。

 

 

思い知った。人は、人と同じ時間で同じように成長することはできない。いつか私にも人に触れたいと思うことが必要なくなるときが来るのかもしれない。

ただそれは今じゃなかった。

 

それが全部のバランスを崩していた。

 

自分にはなにが必要なのか、理想的にプラトニックでいられるよりも、人が不快に思うような軽率な行為の方が必要だなんて、いくらか自分が異常なんだろう。どこかで諦めて大人しくなるんだろう。そう思いたかった。

 

 

残念。思い知った。私は、クソ野郎なんだって。

 

だけど、なにが必要かなんて自分にしか分からない。自分でさえ、分かることが難しいんだから、仕方ない。

 

 

こんなとこまでくれば、思い知るしかないんだから。

誰もが誰かにとっての大切な人。

 

「必要」のない人なんていないけど。

 

友情や愛情や安らぎや安心はいつも一方的に現れる。

 

誰かにとっての「必要」は、少し噛み合わないだけで、それは不要な感情になる。

 

誰に必要とされようが目もくれず、ただひとつだけを奪い合う。

 

親や、兄弟でさえ分け合うことを知らない。

 

親から等しく与えられるようでいて、奪われている。

 

一番にならなければ、あとはその他と同じように感じる。

 

 

ただ一人だけが特別なのだろうか。

 

だた一人になりたいのだろうか。

 

 

 

なれないとわかっているのに、それでも近くにいられる人は大人だ。

 

 

噛み合わないとわかっても近くにいられるのはなぜなんだろう。

 

どうして私は悲しませてばかりなんだろう。

 

 

愛とはなに。

 

親子とはなに。

 

教育とはなに。

 

教えるとはなに。

 

したいと、しなければならないはいつも反対を向いている。

 

 

 

自分をないがしろにしなければ、人は傷つき。

人を悲しませないように生きれば、自分を傷つける。

 

 

だから誰にも会いたくなくなる。

 

だから誰かに会いたくなる。

 


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私はなにから逃げたいのか

 

今は躁なのか鬱なのか、わからない。

 

名前ももたない人間です。

 

電車やバスにのったところで、どこに行けるの

 

コロナだからって、検閲も取締もない。

 

時間を減らそうにもどこもかしこも20時に閉まる。

 

ねえ、なにが悪いことでなにをすれば許されるの

 

なんとなく知っているようで誰も知らないんだ。

 

私は、どこに行きたいの

 

どこに行ったって自分からは逃げられない。

 

正しいことをしたくて許されたくて、

だけどいつも正しいこととはほど遠いところにいて、悪いことばかりして、手も足も真っ黒で、

怖い人が追いかけてくる。

 

仕事休んで殺されて

仕事辞めて殺されて

約束破って殺されて

倫理なんてわからないって殺されて

 

そんなわけない

 

わたし一人生きてたところで、誰も気に留めもしない。

 

わたし一人死んだところで、誰も泣かないでいてはくれない。

 

 

 

どこまでも行こうよ

 

夜が明けるまで。

 

生きることから逃げるのか

 

死ぬことから逃げるのか

 

 

行けばわかるのか、だれにもわかる訳はない

 


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この病気の苦しみは繰り返すこと、

何度だって諦めて、

 

何度だって振り払って、

 

何度だってこの鬱を生き延びられたらやりたかったことやろうと眠りについて、

 

 

 

何度だって忘れて、

 

何度だって絶望する。

 

 

死ぬことも生きることもできないまま

 

死を願う。

 

終を願う。

 

二度と繰り返すことがない世界を願っている。

 

 

もう始まらないことを願って眠りにつこう。

 

 

もうおはようと言わなくてもいいんだ。

 

 

もうおやすみも言わなくていい。